初めて彼の論文を読んだときは驚いた。
倫理もへったくれもないエキサイティングな実験方法、突拍子もない予想、一見無関係に見える事例が並ぶ様は迷路のようで、解答へ導かれる過程はいっそスリリングでさえあった。
夢中になって過去の論文をあさり、次は書いた本人に興味が湧いた。幸いコネだけはあったので、権力をごり押しして科研の奥に引っ込みがちな彼に会う段取りをつけたのだ。
どんな奇天烈な人物だろう、あの論文を書く人は。
期待半分、怖い気持ち半分で出向いた先で会ったのだ。
『君ちっちゃいねー、ってまだ子供か』
柔らかい物腰、穏やかな表情。
笑うと青い瞳がますます深みを増した。――論文からでは想像もつかない人物像に拍子抜けする。
『初めまして、ミスタ・ジェイナス・S・スローン?』
差し出された手を握るのに、ひどく躊躇ったのを覚えている。
「僕の論文は机上論だよ。だから無茶な実験を予想できる」
論理的に組み立てた論文を、あっさり空想の産物だと彼は言い切った。
「でも、ナル因子はあるのでしょう?」
「セトラは劣性遺伝だ。数も少ないし、混血も進んでいるだろう。だのに彼らはセトラと呼ばれる。それはセトラが核となる遺伝子を子孫に伝えるからだ」
「約束の地…ですか?」
「それをなんと言うのかは分からないけどね」
レヴィ・ノアースは肩をすくめた。
「その核が強いんじゃない。核を生かすために、混ざりこんできたヒトの遺伝子を無効にする因子を持つ――んじゃないかなあ、と予想したんだけどね。こればっかりは、セトラに混血の子供を生んでもらわないと」
臨床データが足りない、と彼はこぼす。
「人工授精でも体外受精でも、方法はありますよ! 一人のセトラを捕まえれば、その精子卵子を使って子供はいくらでも作ることが出来る」
意気込む子供の頭を軽く撫ぜ、彼は笑った。
「子供は授かりものだから、ダメ。セトラは実験動物じゃない。彼らが望まない限り、そんなことはしちゃダメだよ」
授かりもの――その言葉に、彼は泣きたくなる。
自分は、厄介者だ。
神羅の末席に席を連ねても両親の期待に副うことは出来ない。ルーファウスには敵わない。少しばかり頭がいいだけの弱々しい子供だ。
授かりものだと言った、このひとの子供になりたかった。
そう呟いたら、なんとも神妙な顔をして彼は。
「…せめてお兄さんにして」
「ドクタ・レヴィ! この手紙はなんですか!?」
ある日届いた手紙に驚き、ジェイナスは科研に駆け込んだ。差出人の名前は『ノアルヴァイス』――一瞬誰かと思った。
「アナグラム~」
そう笑う飄々としたところは掴みどころがなく、彼に会うとホッとした。だから足繁く通い、まとわりつきすぎて嫌われやしないかと遠慮したりもしたのだけれど、思いもかけず彼から手紙が来た。
「君、長官に口添えした?」
待遇良くなったんだけど、と言う彼に何の感情も伺えない。
余計なことをしただろうか――怒られはしないか、と怯える頭をそっと撫ぜる。
「………」
親にさえ、こんなに優しく触れられたことはなかった。
嫌われたらどうしようかなんて、親にだってこんなに気を使わない。
彼に嫌われるのが何より怖かった。
「悪くなるより、いいよ」
「………」
なでられた頭を抱え、思わず口が滑った。
「いつか――あなたの元で働いていいですか?」
彼は驚いた顔をし、そして瞳の色を沈ませて笑った。
「じゃあ、出世払いって事で」
「でも、どうせならメールの方が早いですよ。アドレス、言ってなかったですっけ?」
小型のパソコンを取り出そうとする子供に、彼は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「キー打つの、嫌いなんだよ」
右利きだし、と言うがキーボードを叩く人全員が両利きな訳がない。
「ちなみにあの論文も最初は手書で、見かねた従姉が打ってくれた」
今度からは君の仕事だね、と言われて嬉しかった。
居場所を見つけたようで、ほんとうに嬉しかったのだ。
ノアルヴァイス――noalvise。noalvise。noalvise。
狂ったようにその名を打ち続ける。
まるで魔法の呪文のようにも思えた。
彼のもとで自由になる呪文。
やがて魔法は解ける。
彼の失踪によって。